2020-11-02 第203回国会 衆議院 予算委員会 第2号
マキャベリというと、いわゆるマキャベリズム、一般に評されるのは、目的のためには手段を選ばないとか、ある政治目的を達成するためにはたとえ非道徳的な行為でも許される、結果がよければ許されるとか、そういったことをよく言われる政治思想家でありますけれども、総理はそういったマキャベリズムというものを信奉されているんでしょうか。
マキャベリというと、いわゆるマキャベリズム、一般に評されるのは、目的のためには手段を選ばないとか、ある政治目的を達成するためにはたとえ非道徳的な行為でも許される、結果がよければ許されるとか、そういったことをよく言われる政治思想家でありますけれども、総理はそういったマキャベリズムというものを信奉されているんでしょうか。
地方自治は民主主義の学校であるというこの言葉なんですけれども、フランスの政治思想家であるアレクシ・ド・トクヴィルの言葉であります。 国や地方を統治する王や諸侯から、ブルジョア革命によってブルジョアジーが、そして、プロレタリア革命によってブルジョアジーから今度はプロレタリアートにヘゲモニーが移行していく中で、土地や生産手段を持たない大多数の民衆が政治を動かすデモクラシー、民主主義が始まりました。
この際、総理に、中世ヨーロッパの政治思想家ニッコロ・マキャベリの名言をお伝えしておきます。その大著「フィレンツェ史」の中で、マキャベリは次のように述べています。戦争は、誰かが望んだときに始まるが、誰かが望んだときに終わるものではない。 総理には、慎重な上にも慎重に、かつ思慮深い外交姿勢で職務に当たられることを切望します。決意のほどをお伺いいたします。 次に、内政について伺います。
最後になりますけれども、中世のヨーロッパの政治思想家マキャベリ、このマキャベリの言葉を私たちこの委員会に身を置く議員は重く受け止めるべきだと個人的に考えております。マキャベリはこう言いました。戦争は、始めたいときに始められるが、やめたいときにやめられない。
ホッブズ、ロック、ルソー、カントといった近代立憲主義の基礎を築いた政治思想家たちは、いずれも、この問題に回答しようとした人たちであります。 近代立憲主義は、そうした社会生活の基本的な枠組みといたしまして、公と私とを区分することを提案します。 私の領域におきましては、各自がそれぞれ、自分が正しいと思う世界観に従って生きる自由が保障されます。志を同じくする仲間や家族と生きる自由も保障されます。
私たちは、よく政治の世界で、学校などで教えられた有名ないろいろな言葉があるんですが、例えばフランス革命期の理論的指導者シェイエスが、第二院は何の役に立つのか、もしそれが第一院に一致するならば無用であり、もしそれに反対するならば有害であるという言葉がありますけれども、これは第一院の議決が完全に正しいという前提ではいいのかもしれませんが、一方で、十九世紀のイギリスの政治思想家でジャーナリストのウォルター・バジョット
イタリアの政治思想家ニコロ・マキャベリは、その著書「政略論」においてこう述べております。宗教でも国家でも、それを長く維持していくには、多くの場合、本来の姿に回帰することが必要である。それは、その創設期には必ず何かすぐれたところが存在したはずだからである。そのような長所があったからこそ今日の隆盛を達成できたと。
幕末の政治思想家で有名な横井小楠というのが「天下の策は常に第一等の策を用ふべし」という言葉を使いました。中途半端な策を用いますと、結局だめだという話であります。 小渕総理が鳴り物入りでスタートさせました経済戦略会議でも、国立大学教員の「兼業や産学共同研究の自由度を飛躍的に高める。」
こうした考え方で、私は、何度か強調しておりますように、保守の本質は、英国の政治思想家エドモンド・バークが主張しておりますように、よき伝統や秩序を保持しつつ常に創造や進歩を求め現状を改革していくことに通ずると考えております。
そもそも、保守の本質というものにつきましては、いろんな見方もあるかと思いますが、単なる現状肯定でなく、また現状維持であるのでなくして、英国の政治思想家エドモンド・バークの言っておられますように、漸進主義に代表されることでありまして、よき伝統や秩序を維持しつつも常に創造や進歩を求め現状を改革していく、このことをその機会に強調させていただいたものでございます。
イギリスの政治思想家バートランド・ラッセルは、「政治の理想は、個人の生活に役立つ理想に立脚すべきであり、政治の目標は個人個人の生活をよくするものでなければならない」、すなわち、個人の幸福の創造こそ政治の理想であり、究極の目標であると断言をしています。九〇年代に求められる政治は、個人の真の幸せを確立することであります。
私は別に学者でもなく政治思想家でもございませんが、今日のマルクス・レーニン主義が、かつてのマルクス・レーニン主義そのものだとも感じとれないと私は考えております。今日のある種の自由国家においては、私が経験したムソリーニのイタリアや、それからまたヒトラーのドイツのような、かなり内部的に統制している自由国家もあると思います。